執着が足りない
何年か前に『花束みたいな恋をした』を見たあと、感想を語る会というのがオンラインであった。
有村架純演じる絹が、冒頭で天竺鼠のライブのチケットがあったのに、意中の男性と食事をすることになってすっぽかすというシーンがあった。それに対して、「執着が足りない」と言っていた参加者がいた。
私にも絹のようなところがあり、楽しみにしていた会合に急に行きたくなくなったり、行こうと思っていた映画に、「もういいか」と思って行かなくなったりすることがある。これはなんなんだろうと思っていたけど、これが「執着が足りない」ってことかと腑に落ちた。
5年くらい前は、「作家」という肩書に執着していた。本を出して作家と呼ばれたかった。
恥ずかしいけど、当時の自分は書けるほうだし文章が上手い方だと思っていた。だから、自分がもっとかせげていいはずだし、もっと仕事が来ていいはずだし、もっと本が売れたり人気者になったり、有名な雑誌に呼ばれてもいいはずなのに、と思って不満だった。
ところが、会社員になってから自然と「作家」の肩書への執着は薄れていった。ときどき、その人の「執着が足りない」という言葉を思い出しては、正社員になったくらいでなくなる執着ってなんなんだろう。死ぬほど手にいれたいものがない自分は、熱量が足りてなくて空っぽで、つまらない人間だなと思うこともあった。
ところが、急に一昨日くらいに虚無が来た。Xにも書いたけど、「今まで文章がうまいって褒められて喜んでいた自分ってなんなんだろう」という気持ちになった。
そもそも肩書に執着ってなんなんだろう。それで何が欲しかったんだろう。
一番の理由は収入で、当時はコロナで仕事が減っていて、もっと安定した収入がほしかった。もう一つは、依頼原稿を書くのではなく、書きたいことを好きに書いて発表できる立場になりたかった。
今思ったら、どれも作家じゃなくてもできることばかりだ。
定期収入が欲しいなら会社員になるとかアルバイトすればいいし、好きなことを発信したかったらブログでもポッドキャストでもYouTubeでもなんでもすればいい。それに、作家も注文を受けて書いているので、100%好きなことを書けるわけじゃない。それなのに、変に作家にこだわったからこじれたんだと思う。
それなのにそこにこだわったのは、尊敬されたいとか、人にすごいと思われたいとか、ちやほやされたいとか、人からの評価が欲しかったからだろう。
やっぱり自分の中にあったそういう気持ちを認めることはちょっと恥ずかしい。
どこまで本当のことを言っているかわからないけど、作家のインタビューを読むと、多くの人が自分が小説家とか作家になることを疑っていない。それは執着とは違う種類の想いに見える。もう運命づけられていたというか、あたり前のこととして自分の中で設定されているというか。
だから、肩書に執着している時点で作家になった人とは出発点からして違うのかもしれない。
それよりも私が本当に執着しないといけないのは、書きたいテーマや、人生で追及したい問の方だろう。
それを表面的な肩書や人からの評価に囚われたから、なんだか変なことになっていたのだと思う。
今更そのことに気づいてやってきた虚無だったのだ。
前は私は自分は文章が上手いはずなのに、褒められないとか作家になれないのは変だと思っていたけど、今は、やさぐれているわけでなく、別に文章が上手くないけど言いたいことは言いたいからいろいろ書こうと思っている。別に作家じゃなくても、文章がうまくなくても好きに発信して、言いたいことを言えばいいのだ。それよりも大事なことは、書きたい気持ちや伝えたいことを捨てないことだ。書きたいことが書けたと思うまで書くことをやめないことだ。それに執着するだけだ。
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