※この記事には性加害に関する記述が含まれています。
体調が悪化したり、過去の辛い出来事を思い出す可能性があります。
ご覧になる方はご自身の体調や状況で大丈夫かどうか判断したうえでお読みください。
加害者について語る物語『復讐が足りない』
私が最近はまっているマンガが、冬野梅子さんの『復讐が足りない』です。
私は冬野さんのマンガの、『まじめな会社員』や『スルーロマンス』など、現代社会のモヤっとするところをエンタメとして提示してくれるところが大好きです。
『復讐が足りない』は、会社で起こった性暴力事件を知らされた復田朱里(あかり)が、会社に抗議を始めたところから物語が始まります。
最初は、傍観者だった復田さんが性暴力加害者と戦う社会正義を追求するようなお話なのかなと思って読んでいたら、帰省中にたまたま加害者と出くわすところから話は二転三転して、サスペンスの要素が加わっていきます。すごく展開が気になっている作品です。
私がこの作品で思いもよらなかったのは、会社で起こった性暴力事件の解決が目的になっていないところでした。そして、復田さんの同僚の子どもが起こした盗撮事件や、独身だった同僚男性が結婚を機に変わり始めるところなど、さまざまなタイプの男性の加害を描くところでした。
このようなストーリーにした理由を冬野さんは下記のインタビューで「性被害では、もっと加害者にフォーカスするべきではないか、という思いもあるからです。」と述べています。
性暴力事件は、もっと加害者を紐解くべき。『復讐が足りない』冬野梅子に聞く【連載:物語と沈黙のまわりで vol.1】
https://www.cinra.net/article/202512-fuyuno-umeko-1_imgwyk
そして、その理由を
(会社で性被害が起こって)被害を受けた人に視線が集まっていくのですが、どう考えても「隣の部署のあの人が、やばい人の可能性があるってことじゃん」と、そっちのほうが引っかかっていて。でも誰も触れないんですよね。
そんななかで性被害を受けた人の本を何冊か読むようになって、加害者がなぜ加害をするのか、という議論までたどり着いていないという問題が指摘されていて。
と述べていました。
なんとなく自分がこれまでぼんやり思っていたこととつながって、すごく発見がありました。
加害者にフォーカスする
私はあるときから性被害ではなく、性加害という言葉を使うようになったのですが、それは、「性被害を受けた」という言い方は被害者や被害の方にフォーカスする感じがしたのですが、「性加害をされた」というと、そこに加害者がいて、加害者が加害をしてきたということがフォーカスが当たるような感じがするからです。
自分でもどうしてそういう言い方が必要なのかわからなかったのですが、冬野さんのインタビューを読んで、無意識に加害者にフォーカスすることが必要なんだと感じて、そういう言い方をしていたことに気づきました。それは、加害者の主語のなさに気づいて、それを気づかせた方がいいのではないかと思うようになったからです。
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ここから具体的な性暴力に関する記述が出てきます。
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自分のやったことを自分の行為として認識しない加害者
先日有名なロックバンドのアーティストが性加害を起こしたという告白を読みましたが、その文章においても加害者は自分の加害に気づいておらず、被害者からの申告を受けたのに自分が何をしたのかを認識できず、被害者に何回も説明させたと書いていたことに驚きました。
この人だけに限らず、性加害者は「被害者が自分にそうさせた」「相手が誘っていると思った」と、相手によって自分の加害行為が引き出されたと話すことが多いと感じます。加害者が「相手が誘ったから」「相手もその気だと思ったから」と、自分の行為の原因を被害者側に置くとき、加害者の中では自分の中ではそれは加害ではなくて、被害者に誘発されたものだと捉えているようです。そして不思議なことに、自分がしたくてしているくせに、加害者にはすっぽりと主語が抜けていて、あたかもやむをえずやった行為かのように語ります。だから、このロックバンドのアーティストのように、被害者に加害者がしたことを説明させるという二次加害をするようなことが起こるのだと思います。
またこのアーティストではありませんが、被害者が加害者に説明をするのは、被害者が加害者に対して温情や愛情をもっているからだと曲解する例もあります。どうして加害者はそんなに無謬でポジティブでいられるのか不思議ですが、それも加害者は自分のやったことが理解できていないからだとすると納得できます。
そもそも、被害者は加害者の更生に協力する義理などありません。被害者が加害を指摘するのは愛情ゆえではなく被害者の尊厳を守るためです。被害者が自分の尊厳を守るために、愛情や同意があったからその行為をしたのではなくて、暴力によるものだと申し立てをしているのです。自身の尊厳を守るためにしていることなのに、どうして被害者が相手のために一から十まで相手のしたことを説明してあげて、相手の認知を変えることにまで協力してあげないといけないのでしょうか。つまり、加害者に自分の行為を理解させる仕事まで被害者が引き受ける必要はないのです。
もっと言うと、被害者は加害者に説明するより前に、被害者自身が自分を被害者であると認めることのハードルが高いのです。なぜなら、自分が被害にあったということを認めるのは、自分がひどいことをされたということを認めることであり、とても辛いものだからです。
さらには、性暴力のショックで記憶があやふやになることもあります。また、性暴力の多くは二者の間で起こるために、相手が否定していると自分が本当にそういう目にあったのか確信が持てないということがあります。だから、被害者が加害者のために説明するのは被害者に大きなコストを支払わせていることになります。
そうやって必死の思いで自分を被害者として認めて、相手を加害者として指摘しても、それを愛情や温情ゆえのものだと取り込まれて加害者の支配欲を満たす材料にされてしまう。『復讐が足りない』とは、そんな被害者ばかりに負担がいくような構造を指摘したタイトルだと言えるでしょう。
復讐とはなんなのか
では、復讐とはなんでしょうか。
「復讐」というと、告発や暴力的な手段に訴えることや加害者に社会的な制裁を加えることを思い浮かべますが、すべての人がそのような手段を取ることはできません。また、暴力的な手段に訴えれば被害者がよけいに傷ついたり、社会的制裁を受けることになってしまいます。
この間、「復讐するは我にあり——倫理的お返しのすゝめ」という、佐々木ののかさん、世菜さん、逆卷しとねさんらによる「復讐」をテーマにしたトークイベントを視聴しました。
このトークでは、赦しや忘却ではない形で「被害」「加害」という軸をいかにしてずらしていくか、というような話をしていました。そして、いつまでも被害者でい続けることから軸をずらすことがある種の復讐になるのでは、ということが語られていました。
これはどういうことかというと、性暴力が起こると当事者間でこれまでの「顔見知り」や「同僚」という関係のままではいられなくなり、「被害者」と「加害者」としていったんこれまでの関係は絶つことになります。しかし、被害を認識するために被害者と加害者という枠を採用することは必要でも、被害者にとってはずっと「被害者」のままでいるのは苦しいことなので、赦しや忘却ではない形で加害、被害という軸をずらすことが必要になる話だと受け止めました。
では加害者に対しては何が復讐になるのでしょうか。
世菜さんはふぁむふぁたらない宣言という文章で「なかったことにしないこと。相手にとって都合の悪い存在で居続けること。」が復讐だと述べていました。
加害者はいつまでたっても自分を加害者と認識できないことの方が多いです。だからこそ、加害者に行為の主語を返すこと、つまり、加害者を主語にして事件を捉え直し、責任の主体を返すことが必要なのではないでしょうか。
つまり、被害者にとっての復讐とは、「被害者のままでい続けないこと」であり、加害者に対しての復讐とは、「自分が加害したという事実をなかったことにさせない」ことではないでしょうか。
だから、被害者にとっての復讐と、加害者にとっての復讐はすこし位置のずれたものになるのかもしれません。
加害者を主語にするとは?
これまで、被害者についての物語や経験は、実際の事件やさまざまな創作物で知られるようになりました。しかし、加害者の像はまだぼんやりとしていて、結びにくいように感じます。『復讐が足りない』では、今までぼんやりとしていた加害者の内面をこれまでかというくらいに見せてくれます。加害者は、サイコパスや倫理観が完全に壊れた特殊な人間として描かれるとは限りません。『復讐が足りない』では、どこにでもいるように見える人間が、どのように加害する側に回るのかが描かれています。
だからといって、加害者になるのは「誰にでも起こりうること」として結論づけるのは早急です。
以前読んだ『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』に、ハラスメントは自己の不全感を押し付けることだと書いてあったことがヒントになるのではないかと思います。加害者の心理を一つのモデルに還元したいわけではないのですが、ハラスメントの一因は加害者が自分の内側にある問題を、他者に負わせたいという欲望にあるのではないでしょうか。つまり、加害者は自分の中の問題と向き合いたくなくて、そこから目をそらし、それを人に押し付けているのです。
加害者に主語を返すことが一種の復讐として機能するのは、加害者が他者に押し付けてきた問題を、加害者自身の問題として引き受けざるをえなくなるからだと思います。
私が言う「加害者に主語を返す」というのは、加害者の心の内側を暴いて、その人を理解してあげることではありません。加害者の行為を「相手がそうさせた」と語ることをやめさせ、自分が何をしたのかを加害者を主語にして加害者の行為として引き受けさせることです。
被害者は被害者の枠から出、加害者に自分が加害したという事実から逃げないことを求めるということ、つまり被害者から「被害者」という役割を取り上げ、加害者には「加害者」という責任を返すこと、それが私にとっての「加害者に主語を返す」という意味なのです。
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