これまでものにならなかったものがたくさんある。
片付け本などを見ると、そういった使わなかったものは、なりたかったものややりたかったことの夢の残骸だと書いてある。
私は若いころは自分に満足しなくて、何か新しいことを始めれば違う自分やすごい自分になれると思っていたところがあった。 だからすぐ新しいことを始めようとするのだけど、その動機はそれがやりたいじゃなくて、新しい自分や違う自分になってみたいだから、躓いたり、違うことに興味がわくとそれを放り出すことが多かった。
そうして使ったお金はいくらくらいになるだろう。ぞっとするだろうから計算したくもない。
何も続かない自分を嘆いて哀しみ、どうせできないとはなからあきらめていたこともあった。
本当は、何かをやっている人を心の底ではうらやましいと思っているのに、それを出せなくて小ばかにしたり、自分には手が届かないと見ないようにしていたこともあった。
「今からやったって、仕事になるわけじゃないのに」、「すごく上達するわけじゃないのに」と、いっぱしのものになれないなら手を出すだけ無駄だと思っていたこともあった。
空手道場に通い始めて1年半が過ぎた。
来週試験があって、それに合格できたら黄色い帯がもらえる。
正直、大人から空手を始めたって、若い人のスピードや体力、柔軟性にかなうはずはない。しかし、1年続けてへろへろだった型はそれなりに様になってきたし、最初の練習で怖すぎて泣いたハイキックが来ても泣かなくなり、筋肉がついて体が固くなった。
どうやったって男性や若い人には勝てない。
だからってもいい加減にやるわけでも、女性だからとか、壮年から始めたからとかいって甘えるわけではない。
昔の自分が今の自分を見たら、中年のおばさんが空手家になれるわけがないのに、と小ばかにしていたと思う。でも、別に空手家になるためだけに空手道場に通うわけではない。
そのときの時間を楽しんで、その中で一生懸命やって、前よりできなかったことができるようになっていくのが楽しいから行くのだ。
ほかのことをしていたときにあったあの人よりうまくなりたいとか、見返したいという思いは湧いてこない。前の自分との比較があるだけだ。稽古も痛いし、怖いので、そういう余計なことを考える暇がないというのもあるかもしれない。それくらい必死だ。私のいっている空手道場で今のところ壮年女性は私だけなので、そもそも比較対象がいないというのも大きいだろう。
全然話は変わるけど、私は日本人の前で英語を話すのがちょっと恥ずかしい。
たぶん、発音が変とか、文法を間違うとか、英語うまくないと思われたくないからだ。母語話者や第二言語として英語を話す人とでは全然平気だけど、日本人だとぎこちなくなってしまう。空手のときは空手と自分だけ見て周りを比べないのに、英語のときは英語と自分じゃなくて、自分と周りの人との関係が気になってしまう。
それは、まだ自分がちょっとできる方って思ってるとか、恥ずかしいという思いを捨てきれてないからだと思う。やっぱりまだどこかで見栄があって、英語に対して必死になれない。
そうだ、私は今まで必死さが足りなかった。
私は今だって今の自分に満足していない。だからって、もう新しい自分になりたいとか、すごい自分にはなれないと思うし、なりたくもない。人に対してすごい自分を装ったり、すごい自分になろうとアピールすることもなんだか違う。
ただ必死になりたい。引かれたり、バカにされてもいいから、必死になりたい。そしてその必死さの中で楽しみたい。
お知らせ
ブログ更新中です。
台湾華語学習日記
https://kokeshiwabuki.hatenablog.com/entry/2025/03/08/082551
イベント告知
AWAJISHIMA BOOK MARKETに出店予定です。
淡路島初のブックマーケット、かなり大規模なイベントになるそうです。
遊びにきてください!
ISBbooksさんのふ~ん学フリマ2に出店します。
5月22日~25日 ISBbooks
(〒166-0004東京都杉並区阿佐ヶ谷南1-25-23第一丸伊荘C号)
長らく品切れとなっていた『B面の歌を聞け』1を出す予定です。