好きな季節
子どもの頃はまだ梅雨らしい梅雨があって6月に入れば、蒸すよりも肌寒く、しとしと毎日のように雨が降っていた。
通っていた小学校は街の外れで、農村部に近づくにつれ通学路には水田が広がる。6月になると水を張り田植えが終わり、カエルがやかましく鳴きだす。水田は背後のまだ新緑の残る山を映し、田んぼの中にも山が広がる。
雨の日は長靴が中まで濡れるのが不快だが、靴の中で靴下擦れてキュッキュ鳴る音は面白い。傘の中で降ってくる雨がとんとん響いたりするのもいつまでも聞き飽きない。一人の通学路もそんなふうに雨を味わっていると、退屈しない。
煩わしい梅雨だが、この時期果物は果肉に水分が多く、他の季節にはない独特のおいしさがある。
実家は牛を飼っていて、牛小屋のそばに古いおじいさんが日露戦争戦勝記念に植えたクスノキがあって、そのそばにヤマモモの木が生えていた。ヤマモモの実は柔らかくて、力を入れるとすぐ潰れるからそっと取る。口に入れると舌にざらざらした食感が残り、噛みしめると汁とともに渋みと酸っぱさで頬がきゅーっとなる。
畑のあぜには山桜桃が生えていて、つやつやした赤い実をたくさん実らせている。水分を含んだ山桜桃はさくらんぼより野性的な味で甘さよりも酸味が勝つ。
それから、この季節いちばん好きなのは枇杷。農家にはたいてい枇杷の木があって、うちの裏山にも枇杷が植わっていた。子供の背丈で届く範囲は限られていたけど、手の届く限りになっている枇杷を毎日取っていく。
オレンジ色の実はずっしり重くて皮はビロードみたいな肌触り。表面にはうっすらとした毛に覆われており、触るとざらざらしている。実を傷つけないように少しずつ皮を剥くと、中からつやつやした実が出てくる。かぶりつけばごろっとした種が歯に当たる。種を地面に吐き出して、甘酸っぱい果肉をぞんぶんに味わう。
大人になるにつれて年々雨の勢いは増し、しとしとという言葉など似合わない降りようになってしまった。空梅雨の年も増え、肌寒い日は減って湿気と熱気の混じった亜熱帯のような気候だ。
毎朝バスと電車に揺られて都心へゆく。通勤中の乗り物に漂う湿気と臭気は不快感しかもたらさず、車窓はビルと家ばかり。売り物の枇杷は値段の割に果肉も味も薄く、もいで雑に食べるおいしさとはほど遠い。
夏が来るまでの、半月ほどの雨に閉ざされた季節。30年の間になにもかもすっかり変わってしまった。あんな風情のある梅雨はもう二度と過ごせない。