評価と仕事
半期に一回くらい非常勤講師の査定があって授業を見学されるんだけど、今回の査定の担当が新任の先生だった。
でもそのあとうちに帰って、それって結構どうでもよくない?って思いなおした。
私は私の仕事すればいいだけ。私は言われたことちゃんとやってるし。別に誰が見たって関係ないわ、と思った。
前はあんまりそういう気持ちになれなかった。
コロナで勤務日数が減っていつ切られるかわからない状況だったから、常にびくびくしてたというのもある。
今は求人も多いから別に今の学校がダメでもほかに働くところ山ほどあるから、余裕が出てきたのかもしれない。
でも、それだけじゃない。
ライターや編集の仕事にしてもそうだったけど、前は褒められたい欲が強かった。褒められたい気持ちがあって、新任の先生じゃなくてベテランの先生に見てもらいたかったんだと思う。
日本語教師を始めて最初の頃、「特別な」「名物」先生にならないといけない、と思っていた。昔の予備校やオンラインで生徒集めをするならカリスマ性も多少必要だろうが、学校勤めの一教師だったらそこまでカリスマ性を求められるわけじゃない。
日本語にはいろいろな指導法や教材があるけど、いちばんメジャーなのは『みんなの日本語』という教科書だ。以前はこの教科書が大部分のシェアを占めていた。この教科書は独特で、例文の導入に教師が小芝居を打ったりしないといけない。
その部分は教師の自由度が高いので、めちゃくちゃパワポを凝る人もいれば、副教材をそのまま使う人もいる。あと、この教科書には前の課までに習ってない言葉を使って説明してはいけないという制限もある。なので、一昔前は『みんなの日本語』が使いこなせる教師がいい教師という基準があった。今はもっといろんな教材があるので、その基準も変わってきてるけど。
日本語教師の資格を取るときにこの教材で実習していたころは、いちいちうまくできなかったと凹んでいて、自分もうまい導入で学生を惹きつけられるカリスマ教師にならなきゃみたいな気持ちがあった。
けど、現場でいろんな教材を使うようになると、教え方にもいろいろあるとわかってきた。
また、教材によっては先生の自由度を許さず手順がきっちり決まっているものもあって、逆に創意工夫が邪魔になる場合もあると知った。
先生にカリスマ性はあればいいけど、なくてもできるものなんだとわかってきた。
するとだんだん、評価されないとだめとかされないと意味がないんじゃなくて、評価はおまけで、評価されようがされまいが授業はやらないといけないから、あんまり評価されようと思わずに、淡々とやるようになった。
向上心は必要だが、それが「特別な」とか「名物」を目指すものでなくてもいいのだ、と割り切れるようになったのだ。
けど、ライターとか編集のときは違っていた。10年くらい、心のどっかで「特別な」「名物」ライターとか編集者にならないと生き残れないし、書いたり作ったりしちゃダメだと思ってた。
それは、私が独立して働きだした時代がSNSで名前を売ったり、交流自体がセルフブランディングのツールになって、それ込みで売ってく時代と重なってたからだと思う。そういうところで生き残らなきゃってなったら、認知がゆがんだってしょうがない。
ところで、綿野恵太の『「逆張り」の研究』も時代とその時代が求める性格が一致しなくて、人からみたら悪く取られるような話だった。
https://kokeshiwabuki.hatenablog.com/entry/2023/08/04/000540
たぶん「メンヘラ」とか「自己肯定感がない」とかも、本人だけが悪いというよりも、時代と性格が合わないだけという場合もありそうだ。
私のこんな様子は、はたから見たら「承認欲求が強」くて「自意識過剰」だろうが、別にそれは私のせいだけじゃない。時代に過剰適応しようとしていただけとも言える。浅はかだったと思うが、必要以上に反省したり自分を責めたりはしない。
ライターとか編集のときは東京の大学に行けばよかったとか、賞を取らなきゃだめとか、才能がないからうまくいかないとかをよく思っていた。
売れたりいいねがいっぱいついたり、評価されたりしないと自分のやってることに自信がもてなくなることも多々あった。
でも日本語教師のときは全然日本語学を専攻してないからだめとか、年取ってから始めたからだめとか、非常勤だからだめとかは思わない。
なんでかなと考えてみると、評価に関係なく、自分は自分の仕事をやるって思ってたら、いちいち人の評価で左右されないとわかったからだと思う。人の評価に左右されないって、自信があるからとか「特別」な「才能」があるからだと思っていたけど、そういうことじゃなさそうだ。
それがわかったのは、語学力が私だけの力で伸びないとわかったからだ。いろんな先生や学習者との出会い、日本語話者との出会い、教材との出会いがあり、その人の日本語が形作られていく。私だけの力でその人を伸ばさないといけないわけじゃないから、安心して一部分になって仕事できているのだろう。自分なりの日本語教育観はあっても、いったんは学校とか上司とか教材の考え方に沿って言われた通り教えている。でも別に投げやりになったり盲目になってるわけでもない。それが私の仕事をするということだと思ってるからそうやっている。
たぶん書くとか、物を作るもそういうことなんだろう。
傑作を書きたいとか賞を取りたいと思ったら自分が一番にならないととなるけど、自分はいろんな本があるなかの一部を担ってて、その中で自分の書くことを書くと思えたら、一番とか特別を目指そうとせず書けるかもしれない。
「特別」になりたいとか、「名物」〇〇と呼ばれたい欲がなければ、いちいち他人に嫉妬したり、モヤモヤしたり、「なんで自分が」みたいな気持ちがなくなるのかもしれない。
本当に今までつまらないことに振り回されていたなあ。それで疎遠になった人もいる。申し訳ない事をしたのはひとえに私の心の小ささゆえだが、あんまり後悔しすぎると自分を責めだすので、それが人間だし、しょうがないやと思う程度にしておく。
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